脱スピリチュアル・脱自己啓発

アメブロ『脱スピリチュアル・脱自己啓発』の改訂版。スピリチュアルにハマる…自己啓発セミナーに通い続ける…で、幸せは手に入るのか?

3-8 アダルト・チルドレンにとって見逃せない話

アダルトチルドレンとスピリチュアルは親和性が高いと思います。それは、アダルトチルドレンの人たちは生きづらさを抱え、自己肯定感が満たされていないからです。

 

まずはアダルトチルドレンについて考えてみます。

アダルトチルドレン(アダルトチャイルド)略してACは、本来はアルコール依存症の親を持った子供たちのことを指します。しかし、今では機能不全家族の中で育った子供たちという広義の意味を指すことが多いようです。

この機能不全家族とは、分かりやすく言えば『家庭の機能に問題があり、恒常的なストレスを抱えた家族、家族関係』のことで、家庭内における子供の立場を持つ者が親からの偏った成育環境や思考・価値観を強いられている状況であり、家族の誰かが誰かをパワーコントロールしている状態であり、家族の一人一人の人格が尊重されていない状態です。

ただし、親と言えども単なる一人の人間なので完璧な親などどこにも存在しません。一人ひとり考え方や価値観が異なるように、各家庭ごとに環境や考え方、価値観が違うので、どこからが(機能不全)の状態であるのかの線引きが難しいので、ACの自覚についてあいまいになりがちであるのも事実です。


人間は(欲)と(恥)を根底に、容易く自我コントロール不能にしてしまう生き物であり、親は自分の都合や価値観を子供に押しつけるものなので、どこの家庭にも「ファミリーシークレット」(自分の家庭のみに通用する独自のルールや価値観)が存在するので、機能不全とまではいかなくても、子供が自我を確立し自立する際の大きな『足かせ』は、大なり小なり在るものだと私は考えています。

ただ、その度が過ぎると、子供はアイデンティティーの確立が不十分となります。ですから、あくまでも私見ですが、アイデンティティーの確立が不十分であることがアダルトチルドレンの目安になると考えます。

 

アイデンティティーの確立が不十分であるということは、どのような状態かというと、

・自分の感情や意思が自分でも分かりづらい

・自分が常に何者かにコントロールされてるような感覚を持つ

・自分で自分の人生を歩んでいる実感が持てない

・他者の言動、影響に振り回される

・周囲の人や環境に敏感に反応してしまう

・地に足がついていない(意識が浮遊している:夢見がち:妄想的)

・自分の選択が(誰かしら)(何かしら)の影響を受けている

・自分の意思だけでジャッジできない

・自分に自信がなく常時不安を抱える

・他者の存在や他者の反応がないと自分の価値を確かめられない

などです。

では、この反対の状態、アイデンティティーが確立できるということはどのようなことなのでしょうか?

私の見解は、アイデンティティーが確立すると、人は『主観と客観を織り交ぜて自分に真っ直ぐに向き合い、自らの意識や感情を歪みなく自覚でき、常時、自分の判断でジャッジできる』ということです。

このような状態であれば、生きづらさなど感じることはありません。

人生がうまくいこうがいくまいが、自分で判断し自分で選択して失敗を恐れず、失敗や成功から学び、常時自分をバージョンアップします。時に謙虚に自分を律して、積極的に自分の人生を刻むことができます。

周囲に対して寛容で、歪んだ影響は受けません。

無駄に怒りや憤りを感じることもなく、欲求不満も抱えません。

 

ですから、アイデンティティーが確立した人にとって、スピリチュアルや自己啓発の論理に何ら魅力を感じないのです。

 

ACの人たちが抱えている生きにくさ、不全感、劣等感、他者との比較、承認欲求、すぐに周囲から影響される心身、慢性的な体調不良、抑うつ状態、、、などが、スピリチュアルを引き寄せる磁力になります。

 

「あなたは、あなたのままでいい」

「地球に生まれたこと、生きていることを楽しもう!」

と、スピリチュアルは傷ついて怯えるACの人たちの心を揺さぶりかけます。

 

だから、彼らが夢中になるのも分かるでしょう。没頭するのも理解できるでしょう。

 

何らかの『理論』にしがみつかねば、自分の思考の軸が得られないからです。アイデンティティーが確立されていないから、スピリチュアルの論理に自分の思考の軸を合わせ、選択や行動の根拠に利用したいのです。

宗教と同じです。

 

スピリチュアル商売や自己啓発セミナーで提供されるさまざまなメソッドは、ACの人たちの生きづらさにフォーカスして、「今までよく頑張ってきたね」と慰め、「もうがんばらなくていいんだよ」と励まし、「あなたは光そのもの」だと賞賛し、「喜ぶために生きよう」と扇動します。

スピリチュアル的な儀式(アファメーション)で自分で自分を承認したと錯覚させます。

多くのACがそれまでの抑圧から転じて、自らを「アーティストだ」「エンジェルだ」「救世主だ」と言い出すのはこうした錯覚によるものです。

自分で自分を承認したのではなく、満たされていない自己肯定感を自己愛で埋めただけなのです。

 

スピリチュアルで商売をしている人が、自らに持つ「大それた特別感」を言い出す理由はここにあります。

『高次元の存在』になった気持ちになって喜ぶのも、こうした理由です。万能感を得た気になる人もいます。自分が世のVIPだと言い出す人もいます。自分の特別な力を持って「他人を救いたい・癒したい」と言い出します。

 

こうなってしまった人に言いたい。

「特別なのは貴方だけではない。皆、かけがえのない命であり特別なのです。皆、特別であるのであれば、(特に)(別に)貴方だけがスゴイわけではないのです」と。「自分の人生を大事なように他者の人生も尊重すべきで、他者の生き方に口出しして金儲けすることの意味をよく考るべきです」と。

 

スピリチュアルや自己啓発セミナーは、ACの人の生きづらさを麻痺させるにはとってもってこいの論理です。ただ、それは、アルコール依存症の人にとってのアルコールであり、『抜き』では考えられなくなります。

 

つまり、依存症です。

ACの人のスピリチュアル依存、自己啓発セミナー依存なのです。アルコールじゃないから健全なようで、薬物でないから安全なようで、、、でも、本質は何も変わらない。

スピリチュアルがなければ心が安定しません。自己啓発しつづけなければ安心できません。

 

そこに気づくべきです。

 

もしスピリチュアルで完全に救われたなら、スピリチュアルは要らなくなるはずなのにどんどん没頭し、社会人としての生活を放棄する人もいます。仲間と集って、リア充アピール、、、その目的は何なのでしょうか?

 

目の前にある物事に真摯に懸命であればそれで十分であるはずで、今、ここに生きていること、社会の一員として生きていることが尊いのです。実直に向き合うプロセスの中に、ささやかな喜びがあり、縁があり、その繰り返しが人生をいろどり、豊かにするということ。自らの命をもって生きることそのものがスピリチュアルである、と考えれば、そこに金儲けなど存在せず、商売になってしまった時点で、人間の欲を満たす商材に成り下がります。

 

私もかつて自らのAC問題に対峙してきたからこそ、多くのACの人たちがこうした商売のカモにされていくのを見てきたからこそ、いまいちど考えてみて欲しいと提言させていただきます。