7-3 斬り込み隊長が考えるスピリチュアル
こんにちは。斬り込み隊長です(^^)
アメブロ時代によく読んでくれていた人にはご理解いただいていたと思いますが、ときどき私に対して「アンタはスピリチュアルの何を知ってるんだ!」と声(実際に聞くことはないけれど)を荒げて抗議する人がいます。
そういう人たちに対して、私は「自分の信念と全く違うものに触れなくていいのでは?どうぞさっさとおかえりください。」と言いたいところなのですが、憤りを感じながらでもこのブログを読んでしまうということは、自身の中にスピリチュアルや自己啓発の扱い方について何かしらの疑問を抱いているのかもしれない、と思い、別角度からの視点として当ブログを読んで欲しいと思っています。
ということで、今回は、私のスピリチュアルや自己啓発に対する見解をお話ししようと思います。
スピリチュアルは金儲けアイテムになった時点で俗物になる
オラクルカードを世に広めたひとり、、、ドリーン・バーチュー氏が引退宣言をしたというニュースをつい最近、知りました。(だいぶ前の話だったんですね)
引退理由は詳しくは知りませんが、「あぁ、彼女はこのままだと「ヤバいぞ」とわかってきたのかな」と思いました。
私はスピリチュアルをお金のやりとりのアイテムにしてしまった時点で、それは俗物に成り下がると考えています。俗物とは、それを扱う人物(売る人・買う人の)のエゴ、という意味です。
もし、あなたが信じるスピリチュアルで人を幸せにしたいのなら、お金のやりとりを介さずにただ愛を配ればいいのです。スピリチュアルとはそういうもの、だと私は考えます。
セッションに〇万円、と言った時点で、もうそれは、この世に出回る商品と同じです。ウン十万円の値段を付けて売ったけど、実はそれは道端の粗大ごみ置き場で拾った壺、ということ同じです。
駅の券売機で困っている老人がいたら、「どうしましたか?」と声をかけて、切符の買い方を説明する、とか、店で迷子になっている子に「どうしたの?」と声をかけて、店員に知らせる、とか、家の周り(だけでも)、ごみが落ちていたら拾ったり、とか、、そういう、身近で些細で何気ないことに思いやり(愛情)を持って行動する、、、ということがスピリチュアルだと思うのです。
誰が見ていなくても、誰に言わなくても、「心地よい」「ありがとう」という気持ちが生まれる瞬間に触れようとすることがスピリチュアルだと思います。
と、同時に、自分にとってネガティブな物事に対して明確な線を引き、自分を守るための境界線をしっかり築いた上で周りを見渡すということもスピリチュアルです。
善意を持って生きることは自分のスピリチュアルに対する誠意ある行動だと思いますが、承認欲求を満たすために行動してはいけません。自分でできる範囲で十分です。できないこともある、ということを受容するのです。すべての物事に対して、自分を活かそうと思う必要はありません。
スピリチュアルはとても地味で、身近で、日常の中にある自分そのもの、だと、私は考えています。
エゴにまみれた自分の未来を知ろうとしたり、現実をそのまま受け入れがたい自分を納得させるための過去世をたどろうとしたり、都合よく自分のエゴを満たそうとしたり、、、そんなことのために、あなたの大事な大事なお金を費やす必要はない、のです。
今は、インターネットを介して、魂を耕すコンテンツに触れることが可能です。タダですよ。お金なんて払う必要はありません。
お金をつぎ込んで手に入れようとすればするほど、手に入れたいものは逃げていきます。だから、ハマるのです。(本物なら、すぐに解決するはずです)
スピリチュアルを経済活動だと思う人は、このまま浪費を続ければよいのだと思います。どうぞ、そのままご自身の信じる道をつき進んでください。そして、いつまでも「お金と仲良く」なるセッションにお金を使ってください(皮肉です。笑)
スピリチュアルは、一人ひとりの「生きざま」
私は、スピリチュアル=魂 だと考えます。自分の身体に宿る魂。ですから、他人に荒らされてはならないものだと思います。
魂とは現世でいえば「生きざま」です。自分の心身、そして心身に宿る魂(スピリチュアル)を大切にして、死ぬまで生きる、ということだと思います。
「大切にする」とは、自分も周りの人も喜び楽しいと思えることを大切にする、ということだと考えます。
潜在意識は重要です。同じ意識を持つ者同士に縁が結ばれていくものだからです。ですから、スピリチュアル狂信者が仲間とつるむのはそういう意味です。「ステージ」の問題ではありません。同じ意識を持つ者同士、ということだけです。
アメブロに書いたことがあるお話をしましょう。
ご利益パワーが強いといわれている寺院にお参りに行った時のこと。次々に入ってくる参拝者のことなど気にもせず、祭壇の中央に鎮座して、熱心に手を合わせている人がいました。長い時間、祭壇の前で拝みたいのであれば、参拝者の邪魔にならない端のほうに座ればよいのに、その人はまったく周りが見えていません。でも、この人は、御祭寺を懸命に信心して、願いを叶えてもらおうとしています。・・・この人の願いはかなうと思いますか?
神様は、このような信心を望んでいないと思います。周りの人が快く参拝できるように気を配り、他の参拝者を思いやることができている人のほうに、神様は微笑むのではないでしょうか。
スピリチュアルで商売をしている人は、神様を利用して利を得ようとしていますが、人はけっして神様ではないので、神様から「ロイヤリティを払いなさいよ」と、逆に、お叱りを受けるでしょうね(笑。
自称サイキッカー、自称スピリチュアルカウンセラー、自称超能力者の人たちの声を信じるより、自分の声(スピリチュアル)を信じましょうよ。
自分は特別(な力を持っている)と言って、商売をしている人は、悪徳商売人か、悪魔(低エネルギー)に憑かれた人だと、私は考えます。
目に見えないエネルギーは「在る」
霊の存在や取り憑きについては否定しません。ただし、誰にとっても納得できる方法で証明できないものは、他人に強いるものではないと考えます。自分の中で完結していればよい思考です。
この世の中は「お金」が無いと生きていけません。ですから、お金の存在が重要なのです。生きるために使うのです、エゴを満たすために使ってもそれは単なる浪費です。
生身の身体を持っていて、霊との交信ができる人がいるのなら、私はそういう人は「取り憑かれている人」だと考えます。西洋では悪魔、と分類されているエネルギーです。
悪魔と言っても悪い仕業をするものだけではなく、人のネガティブな感情に接続しエゴを刺激して、魂を磨く作業をサボらせようとする、、のです。
私たちは生まれて死ぬまでの経験の中で「何を思い、何を感じ、何を学ぶのか」を重ねていくしか、魂を磨く方法がありません。そこを間違えてはいけないと思います。
魂を磨く健全な方法
自分なりに懸命に生きることです。
芸術と言われているものに触れることです。
自分の感性を見える(聞こえる)形で表現することです。
縁のある人が笑顔でいて欲しいと思いながら行動することです。
その過程での気づきによって、自分を取り巻く世界が大きく飛躍することはあるでしょうが、スピリチュアル商売のセッションやヒーリングを受けただけで自分の思い通りの人生が開けるわけはありません。(そういう人を見たことがありません)。いつまでも、スピリチュアルに依存し続け「こんどこそ」「こんどこそ・・・」と、叶わぬ夢という名のエゴを追い続けている人はたくさん見てきましたが。
小さな積み重ねが、幸せへと導くものだと私は信じていますし、私は人生をかけてその検証をしていきたいと考えているわけです。