脱スピリチュアル・脱自己啓発

アメブロ『脱スピリチュアル・脱自己啓発』の改訂版。スピリチュアルにハマる…自己啓発セミナーに通い続ける…で、幸せは手に入るのか?

3-6 スピリチュアルを引き寄せる『不安』『不満』『欲望』

『今』だけを精一杯生きていれば、後先のことなど気にする暇はありません。

いいことも起きますし、ついていないことも起きます。その繰り返しが人生です。「いいことばかり」を願うことがナンセンスなのです。

真面目に一生懸命に生きているのだから「報われるべき」、、この気持ちも分かりますし、社会はその「報われたい」気持ちを逆なでするようなことが多すぎます。ですから不条理に憤るのも仕方ありません。

でも、自分の力ではどうしようもない不平不満を並べても何ひとついいことはありません。
『では、自分なら(今)どうする?』ということ集中して、ひとつひとつ実直に行動すれば、そこから起きる出来事の連続に応じるだけで十分なのです。

物事に対していちいち「スピリチュアル的に」などという解釈を用いるということは、他者の論理、誰かからの受け売りで物事を考えているということになり、自分のアイデンティティーを放棄する行為です。

自分のアイデンティティーさえ確立していれば、自分の思考と感情に向き合うだけで良いのです。向き合って選択して行動するだけで良いのです。そこには無理がなく、後悔もなく、在るのは「自信」です。"自分を信じること”です。

そのような重大なことに気づかないまま、スピリチュアルに囚われてしまうのは何故でしょうか?


自己肯定感が低く、アイデンティティーが確立されていない人が他者や他人の思考に振り回されてしまう大きな原因は『不安』と『不満』です。

自分に自信が無いから不安になります。自分を信じ切れないので自分の選択が不安で仕方ありません。周囲の意見、周囲の反応ばかりに気を取られて、周囲の中からベストを見いだそうとします。ところが、自分が主体的に行動していないので、結果として不満が残ります。そのような生き方が当たり前のパターンなっています。

不安だから不満だからストレスが多く、自分の身体を痛めつけます。

 

アイデンティティーが確立している人には考えられない思考パターンです。

自分ではなく他者に思考を委ねているのですから「不安」や「不満」が付きまとうのは仕方ありません。そして、こうした人たちの多くは、幼少時から自分で選択して生きることができませんでした。つまり、経験できなかったのですから仕方ありません。

が、そのことに気づくことはできます。それが大事なのです。

『不安』や『不満』は、想像以上にその人の人生を本来の方向から引きずり落とします。どこへ引きずり落とすのかは、それぞれで考えてください。

そして『不安』や『不満』がスピリチュアルを引き寄せます。

 

【今】が『不満』だから、明るい未来を期待して占いに行くのです。
【まだわからない未来】がどうなるか『不安』だから占いに行くのです。

 

【今】が『不満』だから、未来に満足したくてお願い(お参り、祈願)に行くのです。
【まだわからない未来】がどうなるか『不安』だから、お願い(お参り、祈願)に行くのです。

 

【今】が『不満』だから、悪いのは何なのかハッキリさせて取り祓ってもらいたくて霊能者(超能力者)にみてもらうのです。
【まだわからない未来】がどうなるか『不安』だから、霊能者(超能力者)にみてもらうのです。

 

さあ、この何がおかしいのかお分かりいただけますか?

ぜんぶ『他責』です。(自分の選択)に責任を持たない生き方をしているのです。


さすがにどこかで、その無責任さに不安を感じているからなのかもしれません。スピリチュアルの仲間同士で集うのは、同じ考え方をする仲間がいるということに安心したいのです。

スピリチュアル商売をはじめて、お客さんを集めたいのも、仲間を集めたいからです。


そして、『不安』や『不満』が引き寄せるものが『欲望』です。

【まだわからない未来】が、自分の思い通りになって欲しくて、、、スピリチュアルセミナーやセッションに通うのです。
【まだわからない未来】が、うまく自分の希望をかなえて欲しいから、、、自己啓発セミナーに通うのです。
「思い通りの人生になる!」
引き寄せの法則で幸せを手に入れる!」
「病気が治る!」
「素敵な結婚相手に出会える!」
「地球上すべてをハッピーにします!」


どれも、主体的な自分で選択する人生からドロップアウトしたゆえに、沸々と湧き上がる自己都合の『欲望』に、金と時間を費やすのです。
そして、『欲望』が叶わなければ『不安』や『不満』を持つ・・・無限ループにハマってしまうのです。

人間は欲望を捨てて生きることはできません。人生は「欲望との闘い」と言っても過言ではないでしょう。

スピリチュアルの本当の意味を『この世で(自分)を生きる』ことだとすれば、欲望と闘う自分を、自分の力で成長させていくことだと思います。

・・・なら、(だれだれ)のセッションを受けよう。
・・・なら、(だれだれ)のヒーリングを受けよう。
・・・なら、(だれだれ)のセミナーを受けよう。

という考え方は、自力で生きることを放棄した行為です。人生を他人に任せたのと同じです。
他人に任せたらどうなりますか?どんどん自分のアイデンティティーから遠のきます。どんどん自分の人生から道をはずします。
つまり、スピリチュアルの本質からどんどん離れてしまうのです。

心地良く美しい言葉を並べるスピリチュアル商売人たちは、甘い言葉で人を誘います。
語弊を恐れずあえて言わせていただくと、その美辞麗句は、悪魔のささやきです。アイデンティティーの確立を放棄させ、他人に人生を委ね、自分を粗末に扱わせる恐ろしい悪魔のささやきです。


自分を大事にすることとは、「自分の人生は自分で決める」ということです。その選択が結果としてうまくいかなくても、自分の意思で決めて選択したことに後悔はなく、成長の機会だけが与えられます。人生とはトライ&エラーの連続そのものであり、自分で選択して生きることがどれだほど気持ちの良いものなのか、自分を成長させる多様な経験に満ちているのかに気づくことが出来れば、これ以上に豊かな人生などありません。

他人の言葉に自分の人生を委ねてしまったら、自分の人生は自分で決めずに他人に支配されながら生きていくしかありません。

「スピリチュアル的」などという誰かが考えた論理を物差しに生きるしかありません。
自分で自分の人生を生きていなければ、必ず『不安』と『不満』が募ります。そして、なにか都合の悪いコトが起きるたびに、他人の提示するスピリチュアルの論理に依存します。

そのような、まったく楽しくない人生を選択して、
自分の人生を放棄した断末魔の叫びを、「幸せ~!」「自分の人生最高!」「自分は特別!」という歓びの言葉をすり替えてブログやSNSで声高に言っている人たちは、
「私のセミナーセッション(講座)を受けてください!」という、手招きPRです。
仲間を欲しています。自分だけが落ちていきたくないのです。

本当は怖いのです。

けっして、彼らは満たされません。自分の人生に『不安』と『不満』でいっぱいだから、逆に「幸せ」を連呼して錯覚していたい。はじけて舞い上がっていないといられません。

 

『不安』や『不満』を抱えた人は終末期思想に惹きつけられます。
うまくいかない人生にこの世の終末を重ねて「あぁ、これは神(とか宇宙)からのメッセージだ」と思いたがります。
地に足を付け、襟を正し、より実直に生きようとすることを忘れて、何か(宗教とかインチキ商売とか)にすがって、実は「自分の人生をご破算にして、やり直したい」気持ちが疼いているのです。

うまくいかなかった人生をご破算にした上で、自分だけが助かりたいのです。自分だけ救われたいのです。

芥川龍之介の名作『蜘蛛の糸』で、カンダタ(犍陀多)は、蜘蛛の糸をよじ登りながら振り返ると、罪人たちがこぞって登ってくる姿を目にします。
「あぁ、一人がしがみついただけでも切れそうな細い糸に、たくさんの人が連なるとは・・・」
何故、カンダタ蜘蛛の糸を切ったのか?


・・・自分だけは助かりたかった。からなのです。

 

自分だけアセンションしたいからです。

自分だけ高次元に行きたいからです。

地球が破滅したら、自分だけ助かりたいからです。


終末期思想は、「もうすぐこの世が終わる」という脅し文句に煽(あお)られて、
・この教え(宗教)を信じなければ
・このツボ(ただの壺)を買わなければ
・この思想(ただの思い込ませ)に信心しなければ
・これに(そういう商売)に金を使わなければ、
救われない。。。という、人間のエゴが提示した交換条件取引です。


欲の皮が突っ張った人たちの我欲は重い。
頭の上にのしかかる重石のように…。
ほどほどにしないと、己の欲で身を潰します。

そうした人が、この世にどれほどいたでしょう。


高利回りの投資話に引っかかって大金を失うのも、スピリチュアルに散々金を使って結局は何も残らなかったのも、大きな違いはありません。

動機は「不安」「不満」に起因した「自分だけ助かりたい」欲望によるものです。

悪い予感、悪い予告、悪い噂、悪い予兆、悪いこと、、、、が自分には起きて欲しくない・・・そんな不安を、我欲はエサにします。

自然災害が多発しているこのご時世だからこそ、『不安』に気をつけましょう。自然災害、世界情勢にからめて、陰謀論を持ち出して、スピリチュアル商売をする人たちがどれほどいますか?

何が起きてもいいのです。どうなってもいいのです。

自分をしっかり持っている人は、怖くありません。

起きた時、自分はどうするかを選択すればいいのです。