脱スピリチュアル・脱自己啓発

アメブロ『脱スピリチュアル・脱自己啓発』の改訂版。スピリチュアルにハマる…自己啓発セミナーに通い続ける…で、幸せは手に入るのか?

1-6 スピリチュアルブームの問題はスピリチュアル依存を増やしたこと

人生がうまくいかない時、「自分(の判断)が悪かった」だけではなく、社会背景とともに、自分が育ってきた環境を振り返れば、「自分(だけ)が悪いわけではない」ことはすぐに理解できます。けれども、日本人には自己肯定感が育くまれてきませんでした。自分を強く責める意識を持ちやすい。ここが大きな問題です。
困難に向き合わねばならない時、自分自身を自然に肯定できる感覚があれば、地に足をつけて生きていく過程の中で、自分というものを少しずつ理解しながら前向きに進むことができます。ところが、自己肯定感が低いと、自覚できようとできまいと心の奥で自分を責めます。自責の念が無自覚の場合は問題の原因を外部にのみ求め(犯人探しをする)、自覚してしまう場合はただ自分の愚かさに嘆き弱りきって何か(誰か)に救いを求めるしかなくなります。ここで言う犯人探しと、救いを求めることに、大きな違いはありません。
 例えば、スピリチュアルカウンセラーの常套句、『前世』や『来世』という話は、クライアントが自分自身に向き合うことをさせず、けっして証明できない抽象的な「何か」が原因であるということで本人を納得させるしかありません。(まだ、クライアント本人が前世を見るよう誘導するヒプノセラピーのほうがましです)。クライアントの前世が見える特別な能力を持つ人にお金を払って「見てもらう」商売が成り立ってしまうのです。また、波動という概念を使う場合も同じです。明確に理解できない事象を用いて強引に納得させます。見えないモノですが、藁にも縋る思いでやってくるクライアントにとって「知りたい」「良くなりたい」という欲求を刺激し、依存へと向かわせてしまうのです。
人の弱みにつけこんで欲求を刺激する行為は、1度のカウンセリングでは終わりません。次々に、「アレも知りたい」「コレも知りたい」となるのは、欲望のかたまりである人間の性(さが)です。こうした関係性を築くと、やがてどうなるか…。教祖化、宗教化です。

スピリチュアルカウンセラーが、やがて教祖のようにふるまうようになり、広い会場に信者を集めて登場し、歌などを披露することがあるでしょう。あのような行為は、まさに、壇上で新興宗教の決まり文句を教祖が唱えているのと同じことです。
 百歩譲って、見えないモノが見える特別な能力があるとしましょう。でも、人の幸せを本当に願うカウンセラーやセラピストであれば、1度のカウンセリングで関係を終わらせようとします。未来は他人から「知らされる」ものではなく、自分で開拓するものです。何度もクライアントが求めたら「NO!」を言えばいいのですから。
人生を歩みながら、さまざまな経験から自分を知り、未来を切り開いていくというプロセスが「生きる」ということです。これを端折って、スピリチュアルな能力を使って、クライアントから実直に歩む意思を奪い、「どうにかトクしたい」「ラクに幸せになりたい」という欲求を刺激してカウンセリングやセラピーに通わせる…。つまり、スピリチュアルという言葉とともに、スピリチュアルが「イイ商売になる」ということも日本に伝えられてしまったのです。


 スピリチュアルを「魂」と訳すのであれば、スピリチュアルが『魂が商売になる』ということになります。
それが、どういうことだか分かりますか?
魂は商売になりません。魂は、宿り主のものです。私の魂は私だけのもの。あなたの魂はあなただけのものなのです。他者に操られてはならないものです。