脱スピリチュアル・脱自己啓発

アメブロ『脱スピリチュアル・脱自己啓発』の改訂版。スピリチュアルにハマる…自己啓発セミナーに通い続ける…で、幸せは手に入るのか?

3-3 スピリチュアルの何にそれほど魅力があるのか?

スピリチュアルに没頭する人、自己啓発セミナーで知り合った仲間と(自分らしさごっこ)続ける人は、自分の本質に向き合う意思がありません。

自分のマイナス部分(劣等感や自己肯定感の欠如)に踏み込む勇気がありません。

だれもができるだけ傷つかず生きていきたいものですから仕方ありませんが、もし(傷つきやすい自分をつくりだした理由)があるとしたら、それを取り払ってみたいと思いませんか?そして、その先にアイデンティティーがとしたら、、、どうですか?

 

このサイトでも何度も言わせていただきますが、スピリチュアル系のヒーリング、スピリチュアルがらみの自己啓発セミナーなどに参加して、大きく感動を覚える人たちは『自己肯定感の欠如』という部分で共通しています。

 

スピリチュアルでも自己啓発セミナーでも、いつまでも卒業できずに関わり続けなければならなくなった時、それはタバコや薬物、アルコールのような(中毒)であり(依存症)と似たようなものです。

本来、人生を歩むとき、自分の選択とそこから続く事実と向き合い、その都度にベストを尽くす行動をとれば済む話です。それを、スピリチュアルや自己啓発セミナーに頼っては(自分の足で自分の人生と言う道を歩いていない)と同じことです。

でも、このような人たちは、そもそもアイデンティティーというものがどういうものなのか分からないので、他人に自分の人生の舵を握らせていることすら気づきません。

 

こうした自分(アイデンティティー)を確立できない人が、なぜスピリチュアルに魅力を感じるのでしょう。それは、さまざまなスピリチュアルメソッドで持ち出される共通した論理があるからだと思います。

 

●『許し』

スピリチュアルメソッドでは、クライアントに対して「許し」を与え「許す」よう求めます。スピリチュアル商売はあくまでも(商売)なので、お客さんをできる限り不快に思わせることのないよう美辞麗句を並べますが、明確に示している(許し)は、以下の2点になります。

(1)試練から逃げようとする甘え(自分は甘い人間です)ということからの許し

(2)すべての試練の原因(自分以外)に対する許し

 

(1)の自分に対する許しとは、「現実に徹底的に向き合わず、スピリチュアルに自分の思考を委ねてしまう(つまり、スピリチュアルに依存する)ことに対する自己嫌悪を許す」ことです。それを、スピリチュアルカウンセラー達は、「(苦労してきたかわいそうな)自分を許す」という美談にすり替えます。本当は、自分の甘さを棚に上げ、さらに思考までも他人に預けてしまい、自分の人生の選択とその結果を引き受けることから逃げる怠慢に対する許しを乞うと考えたほうが良いのです。

 

(2)の他責に対する許しとは、自己肯定感の低い人に共通する他者と比較する物差ししか持たないために抱え続ける劣等感を自己愛で補おうとすること、つまりアイデンティティーの確立がされていない人に共通する『自分は悪くない』という思考に起因する、すべて自分にふりかかる試練や問題の(原因は自分以外に在る)と考えることから由来した(自分にひどいことをした対象)に対する許しです。

この他責に起因する許しは、スピリチュアルワールドに入るチケットのようなもので、アイデンティティーが確立した人はチケットを入手できません。

簡単に言えば、不平不満を抱えている自分の憤りの対象となる(人)や(物事)への執着を手放そうということになります。自分にはどうにもならない対象(自分以外の人や物事)に対して憤りがあるから苦しむのです。

 

人は誰でも自分の都合の良いように物事を解釈します。(誰か)(何か)を許せない。

(誰か)(何か)のせいだ。と思うほうがラクです。そのような他責の念が心の中で渦巻いているとモヤモヤや憤りから解放されません。だから、スピリチュアルでは「許し」を持ち出します。

ただ、簡単に他人のことは許せません。だから、(甘い)自分も一緒に許すのです。自分も許す代わりに他人も許す。これで「おあいこ」。という着地点です。

こうした「許し」を得ることが出来れば、自分はひとまわりも、ふたまわりも大きな人間になれたと思えます。ただし、ここに自己愛が潜んでいることを忘れないでください。

自分を許し、周囲も許し、すべてを許す…。

「あぁ、なんて自分は大きな器の人間なのだろう」という自己満足に浸り、「許して(あげた)」という傲慢な勘違いに自己愛を満たします。

結果として、自己肯定感が満たすどころか前項「3-2 承認欲求とスピリチュアルの深い関係」で述べた、満たされない自己肯定感を自己愛にすり替える行為であると言ってよいです。

 

●『波動』

ここで波動とは何なのか、皆さんに分かりやすくお伝えしたいと思います。

「目を閉じて、貴方の大好きなものを思い浮かべてください」

ゆっくり目を閉じて、1分程度、貴方の大好きなものを十分に思い浮かべてください。

 

さあ、どんな感じがしましたか?ワクワクした人も、じんわり温かくなった人も、ドキドキした人も、身体が緩んだ人も、、、いろいろいるでしょう。

これがスピリチュアル商売で語られる「波動」の正体です。

貴方にとって心地良いもの、好きなものを思い浮かべただけでも、身体は変化を起こします。不思議だと思いませんか?貴方が思っただけなのに確かに身体は変化を起こし、貴方はそれを体感として受け取りました。こういうことを波動と考えれば、波動とは難しい世界のことではなく、私たちは波動を感じながら生きているのです。

 

ところが、スピリチュアル商売は「波動」はお金で買うものになっています。高額な波動がらみの商品が売られています。

「波動に良いもの」として高い金額を払って手に入れ、「あぁ、これで波動が上がる」と思い込んで使えば、先ほど貴方が行った好きなものを思い浮かべる実験と同じような嬉しい体感が得られるはずです。なぜなら、好意をもって受け入れているのですから。

 

先に述べた「許し」によって、自分の器は大きくなり魂の波動が上がりました。波動が上がった自分は、もう些細な事に振り回されません。・・・なぜなら、『自分の居る次元は高いのですから』。という論理です。

さあ、ここまで読んでもこのプロセスを滑稽だと思わない人は、もう二度とこのサイトに来ないで、貴方のこよなく愛するスピリチュアル道を突き進んでください。

 

違和感を感じた方、おかしいと思った方は、よく考えながら読み進めてください。

(高い)(低い)をつくるのは人間のエゴです。真のスピリチュアルは、人によって差がありません。だれの魂も等しく尊く、大切で、高い低いなどないのです。

ところが、スピリチュアルを商売にするには、人に優劣を付けなければなりません。なぜなら、スピリチュアルにすがる人は、自分(だけは)幸せになりたいからです。そこをうまく刺激するために「許し」というコンテンツは必要です。

「許し」「許せた」者だけがアセンション(次元上昇)できると言います。

それは、まるでノアの箱舟に乗るための乗船券のようなものです。この世の中はこれから破壊に向かっています。環境も悪化し、人々の心も荒んでいきます。資本主義経済も破綻の一途です。・・・でも、この乗船券を持っていればユートピア行の船に乗れるのです。・・・という論理です。

選民主義的でかつ(分らぬものは置いていけ)(自分さえ助かればよい)というエゴを象徴する浅はかな思考なのです。

 

「許し」とは厄介な思考で、その根本に自分を苦しめた(誰か)(何か)に対する復讐的な意識があります。ですから、自分を苦しめた者たちは低次元に留まるべきであり、破滅へと進むべきだと思っているのです。

自分はスピリチュアルに出合い、他の人とは違う高尚な思想、思考を手に入れ魂の波動も高い、、、つまり、自分の居る次元が高いから、もう、あの者たちとは同じ土俵に立たない、という優越感で、それまで抱えてきた他責の念に折り合いをつけるのです。

実際には、スピリチュアル商売に唆(そそのか)されて、心の奥にある劣等感や他責の念や憤りをなだめているだけなのです。ですから、彼らは、波動にとことんこだわるのです。もうすでに低い波動など影響を受けない高い次元に居るはずなのに、常に波動にこだわらねばならないのです。矛盾していることに気づきましたか?

 

「高次元に行く」「波動の高める」その理由は、周囲と同じでは納得できない心理があるわけです。つまり自己愛です。

「特別でありたい」「他よりも上でありたい」

肥大化した自己愛を満たすために必要なロジックにハマっているのです。

 

宇宙全体をもし俯瞰して見ることが出来れば、私たちを取り巻くものすべてが同じところに在り、同じなのです。スピリチュアルを深く考え進めていけば、個人差などなく、すべてが一つである。その世界に私たちは身を置いていると考えるのが妥当でしょう。

差など無いのです。同じなのです。同じである上で、自分は自分の命と意思を大事に、自分の選択で自由に生きていくべきものなのです。

 

スピリチュアルにハマる人はワンネスを言いながら選民意識で自己陶酔しています。ですから、スピリチュアル商売にハマる人は浅はかだと私はいつも言っているのです。もっと思考を広げるべきです。

 

スピリチュアルで商売を始めようとする人たちは、「自分は波動が高く、高次元の存在で、特別な力を持っているから、その力で周囲へ「愛」を配る」と言い出します。自己愛そのものです。

 

●『愛』

愛に理屈は必要ありません。先に述べた波動を感じる実験でいえば、好きなものを思い浮かべた時に感じる身体の感覚が愛の感覚そのものです。

ところが、スピリチュアルに傾倒する人は、自己愛を『愛』だと勘違いし、自分の中に在る愛だけが(あなたを癒す)(宇宙を癒す)と思い上がります。インターネット上だけを見ても、これだけ愛を叫ぶスピリチュアル商売人がたくさんいるのですから、この人たちのパワーで、もうこの世界は平和だけで満たされても良いはずではないですか?

そうならないのはおかしいと思いませんか?

 

愛を特別に扱うこと自体、愛に飢えている証拠です。わざわざ(誰か)(何か)のために、わざわざ愛を証明するような行動が愛だとは思いません。愛とは承認です。自分を認め、他人を認める。シンプルな事です。

そんな単純で当たり前のことを、わざわざ大げさに持ち出すこと自体、商売じみていて胡散臭いと思いませんか?

自己肯定感が低い人は愛に飢えます。愛を求めます。称賛・承認を求めます。だから、「愛」ばかりを叫び、「愛」を商売道具に使おうとするのです。

 

 

●『カルマ』

カルマはあってもなくてもいい。でも、カルマがあったほうが、現実に不平不満を持っている人にとっては納得しておとなしくなるためにちょうどいい(意味付け)です。

過去世などばかりに思考を奪われ、今を軸に足を下ろすことが出来なければ、カルマは全く無意味なものになります。過去を探るくらいなら、今の自分自身の内面を掘り下げたほうが現実的であり、今の自分自身に直結します。

人間は欲にまみれた生き物ですから、皆、カルマだらけです。因果応報に興味を持つより、「自分はどーしたいのか?」「何をしたいのか?」に興味を持ったほうが今を生きていると言えるでしょう。

 

アイデンティティーが脆弱な人は、今の自分自身に真正面から向き合うことが苦手です。なぜなら、自分で自分のことが分からないからです。

自分探しで精いっぱいになってしまった人は、自分のルーツに向き合うことが出来ません。自分を育んできた(環境)や(親)に対して「NO!」を突き出せません。ゆえに、自分を縛りつけている(環境)や(親)から脱出する勇気など持てないのです。

ですから、いつまでもいつまでも迷い人でいるしかないのです。

いちど「あぁ、それは自分は(NO!)だったんだ」「今の自分には不要だ」と気づけば、スクラップ&ビルドが可能です。ところが(NO!)と言えない。処分できないから、見えなくなるように気づかなくて済むようにいろいろなメソッドを詰め込んでいくしかないのです。心の中が散らかって、収拾がつきません。

アイデンティティーの確立は断捨離作業に似ています。不要なものは捨てなければ、シンプルな自分の家が見えてきません。新しいものは入りません。自分にとって必要なものを見極められません。

 

過去世やカルマを他人から提示してもらって、心から納得できますか?

 

クライアントが涙する過去世やカルマを持ち出して、「あぁ、自分のこれまでの試練は仕方無かった。許そう』と思わせることは非常に簡単です。

 

 

一人一人の命があります。スピリチュアルが魂を指すのなら、スピリチュアルは特別なものではなく、誰の中にでも同じようにある世界です。それを商売にしてしまった時点で、商売人の単なる道具にすぎません。