脱スピリチュアル・脱自己啓発

アメブロ『脱スピリチュアル・脱自己啓発』の改訂版。スピリチュアルにハマる…自己啓発セミナーに通い続ける…で、幸せは手に入るのか?

コラム4:自己肯定感は人生を決めてしまう

多くのスピリチュアルコンテンツ(私が考える「本来のスピリチュアル」とは異なることを明記するために商売に利用されるスピリチュアルを「スピリチュアルコンテンツ」と書きます)には、一定の論理があります。

 

スピリチュアルコンテンツにうってつけのアイテム

●宇宙の法則

●オーラ、エネルギー

●高次元の存在

●神聖なるものの存在

●イニシエーション、瞑想、アファメーション(いわゆる儀式)

●天使

●龍

●数秘、リーディング、〇〇術(いわゆる占い)

 

などなど。

 

どれも、「誰もが確定的に検証(証明)できない抽象的な概念のもの」です。

本人が「在る!」「いる!」といえば在るもの、です。

なぜなら、この世で目に見えるものでは「神秘」や「不思議」になりにくい。(本当は我々は奇跡そのものの中に生きているはずだけれど)

 

子供がてるてる坊主を軒下に下げて「あした天気になーれ!」と願い、翌日晴れると「てるてる坊主のおかげ」と喜ぶのと同類の現象です。「イタイのイタイの飛んでいけ~!」でさっきまで痛かったところが和らぐのと同類の現象です。

それくらい、心理面、つまり脳というものは思いのほか単純でかつ環境の影響を受けやすいのです。

スピリチュアルの場合、本人の思いや願いを届ける先が在るということが重要なポイントです。例えば、宇宙であったり、月(新月や満月)であったり、高次元の存在であったり、天使(エンジェル)であったり、、です。

何万円と言うお金をかけずティッシュペーパーでてるてる坊主を作って軒下にぶらさげて同じ儀式を行っても実は変わりはありません。祈祷の対象物があり、その対象物を(願いを叶えるもの)として信じれば、なにを使っても同じです。偶像崇拝でありプラセボ効果の域です。

ここで大事なのは、「そんなつまらない結論にされては困る」のではなくて、「どのような方法であれ、ネガティブな潜在的な思考を超えるだけの信じる力があれば、心も身体も、それによって環境も大きく変えることが出来る」ということです。人間の不思議、奇跡はそのようなところにあるのだと思います。

 

一方、スピリチュアルに傾倒する人には、ある程度の傾向があります。

●アダルトチャイルド(AC)

●精神的・身体的にハンディキャップがある人

●感覚優位(思考より体感覚が強い)人

アイデンティティーが確立していない人

●本よりネットから情報を取る人

●孤独感の強い人、生きづらさを強く感じる人

 

などです。

 こうした人たちの共通項は、「自己肯定感が低い」ということです。自己肯定感が低いことは、本人の本来の人生を大きく制限します。ただし、自覚することが非常に難しいのも「自己肯定感」です。

 人は、自分が生きてきた経験の中でしか判断の指標を持てません。つまり、経験したことのないことは実感できませんし、想像すらできません。ですから、自分が自己肯定感が低いなんて微塵も思わず生きてきた人もいるでしょう。・・・でもスピリチュアルに強く惹かれる・・・としたら、たぶんあなたは「自己肯定感が低い」のです。

 本人が根っから「自分は自信がない・・・」と自覚できているひとは、自己肯定感を取り戻すことが可能です。あとは本人のアクションのみです。(どんな方法があるのかは、別のコラムで書こうと思います)

 厄介なのは、自己肯定感の欠如を自己愛で埋めている人です。本人ですら「自信満々」であると思っています。周りの人もそう思っています。では、どのようなところで、この自己愛を見抜くか?というと、それが「承認欲求」なのです。

 自己愛で自分の自己肯定感を満たそうとしている人は、承認欲求が強い。周りからの評価、「いいね」を求めます。自分(こそ)は、誰よりも優れていて特別であるということを周囲の反応で確認したがります。

 派手なパフォーマンスをしたり、自らを高次元の存在といってスピリチュアルコンテンツで商売をしたり、クライアントに「~して差し上げます」というような何気ない一言で垣間見える上から目線。慈愛に満ちた表現を用いつつも結局は「自分を見て!称賛して!」と求めること、これが承認欲求の表れです。

 もともとスピリチュアルカウンセラーや心理カウンセラーをしていた人が、ある時から、歌や踊りなどアーティスト方向でのパフォーマーに変身するのはこうしたプロセスを分かりやすく示しています。

 俯瞰して見てみてください。スピリチュアルコンテンツに群がる人たちは、承認欲求の満たし合いに終始しています。

 同類相哀れむ、という故事のように、「自己肯定感が低く、生きづらさの中で頑張ってきた」という仲間と(スピリチュアル)つながりで群れたがります。

 仲間と群れるという行動も、自分ひとりでは立てない(承認欲求)と(アイデンティティ―の未確立)を如実に表しています。自分ひとりでは満たされません。同じ思想によって結ばれ、互いに波動の高さを称え合い、自分たちの行動を理解できない人を(波動の低い)人たちだと見下します。

 一方で、こうした人たちは、自己肯定感が低いために、他者に自分のネガティブな部分を開示することが苦手です。見栄を張ります。ほかのだれかよりも「幸せ」な人生を送りたいと思います。プライドが自分の行動を邪魔します。なぜなら、他者との比較という物差しを持ち続けているからです。

 弱くて情けなくてどうしようもない自分は無視して、自分は他の人たちよりも叡智を持ち波動が高いという優越感で、「自信がないゆえの不安」をかき消そうとします。

 

ですから、スピリチュアルコンテンツや自己実現を謳った心理学や自己啓発セミナーはうってつけです。

 

心のままに

『本物の自分を手に入れる』

『愛に満ちる』

 

などという言葉は、自己肯定感が不足してアイデンティティ―が確立されていない人にとってとても魅力的に聞こえます。

なぜなら、「自分は何を軸に生きていったらいいか、自分では決定できない」からです。

指針が必要な人たちです。

 

本当は、自分がやりたいことをやればいいだけなのですが、「何をしたらいいのかわからない」のです。

そういう人たちにとって「自分を生きる」ような気になるには、手っ取り早くスピリチュアルコンテンツに触れ、その教えの通りに生きようとすることが、「正解」であり「真実」だと思い込むのです。

 

でも、それは、一時の慰めです。

本人の意思ではなく、スピリチュアルコンテンツに自分の意思をコントロールされただけです。

それほど、アイデンティティーが確立されていない、、、ということは人生において大いなる損失なのです。

あくまでも誰かの意見や、何かの教えに従わずにしか生きられません。

自分だけの意思決定は怖くてできないのです。・・・なぜなら、自分に自信が無いから。(自己肯定感の欠如)

だから、スピリチュアルコンテンツの言葉を借りて、万能感に浸り、誰かに影響させることで認めてもらいたいと欲するのです。

 

私は、スピリチュアルを自信満々に語る人に出会うと

「あぁ、この人はどこかで大きく傷ついて生きてきた人なのだろうな」

「あぁ、この人はACだな」

などと思い、それまでの彼ら人生を築いた過去を少しでも知りたいと思いながら話を聞くように意識します。(いわゆるリサーチです)すると、やはり出てくる。スピリチュアルにハマっている人は、スピリチュアルにハマる理由があるのです。

だからこそ、一定の法則・傾向があるということに気づいたのです。

 

日本人は国民性として自己肯定感が低いことも大きな理由でしょう。これについては第1章を読んでください。

 

自分を承認する器があるとします。その器が「満たされない部分」があれば「何か」を投入して満たそうとします。でも、スピリチュアルは問題のすり替えはしてくれようとも、器を満たしてはくれません。

 

一方、自分自身で自分を承認することができると、

●他者との比較することが無くなります

●他者の幸せを心から「いいね」と思えます

●他者からの評価が要りません

●他者の反応で自分自身を確認することが無くなります

●他者と自分にハッキリとした境界が築けます

●失敗はネガティブな事ではなく自分を知る「経験」だということが解ります

●自己責任で自分の行動にアグレッシブになります

 

つまり、「他者」の存在に振り回されなくなるのです。自分の意思は自分ではっきり自覚し、行動を決めることが出来ます。そこでようやく、「自分は何が好きなのか?自分は何をしたいのか?」ということを、悩むことなく気づくことができるのです。

 

これが出来ない人が、スピリチュアルや自己啓発にハマります。

ハマって「自分を生きている!」と勘違いさせられます。その勘違いは、ただの「逃げ」です。不満タラタラだった自分の人生からの「逃げ」をスピリチュアルコンテンツの力を借りて幸せ!だと勘違いし、自分の人生を生きている!と思わされます。

 

本来の自分を自分の力で取り戻さずに

「ありのままの自分を手にした」と思い込まされるからです。

その方法が、アファメーション的な儀式で合ったり、セッションやセミナーで行われるものなのです。

非常に分かりやすいのです。

 

「あなたは精一杯頑張ってきた」

「自分で自分を許しましょう」

と言われ、「逃げる」ことに対する罪悪感から「気づき」にすり替えます。

なぜなら、人間は(自分に甘い)からです。

結局は、ラクして幸せになりたいからです。

自分の人生を生きずに(未来を知りたい)(自分の本質を知りたい)(なぜ生まれてきたのか知りたい)・・・そんなおいしい話などありません。

 

毎日を実直に懸命に生きる。その過程で未来が築かれます。その過程で自分を知ります。その結果、死を前にした時、自分はなぜ生まれてきたのか気づくのかもしれません。

・・・そんなものなのです。「生きる」ということは。それ以上に崇高で尊いものはないのです。

 

そこをショートカットできる方法があるのなら、もっと満たされて生きている人が多いはずです。今は世界中がインターネットで繋がり、最善の方法があればすぐに世界中に広まるはずです。なぜ、こんな世の中なのですか?(ここで、スピリチュアル傾倒者は“陰謀論”を持ち出します)

多くの人は不満タラタラ、事件や事故が多く、戦争は無くならない。差別もなくならず、不条理な世の中は相変わらずです。日本だけをみても、一見平和そうにみえて、どうですか?私たちは安寧の中にいると確信できますか?

 

スピリチュアルブームとは人間の弱さの証明です。

 

そして、人間は弱くていい。だからこそ、他者と関わり合いながら生きていくのです。

でもその際、自分の人生をスピリチュアルコンテンツにゆだねるよりも、自分の意思で自分で決めて自分の力で歩くということを、互いに尊重できれば、もっと本質的なスピリチュアルにたどりつけると思います。

 

足りない自己肯定感を育むには、自分で自分自身に向き合うことから始まるのです。

次回は、そのことについて書きたいと思います。