脱スピリチュアル・脱自己啓発

アメブロ『脱スピリチュアル・脱自己啓発』の改訂版。スピリチュアルにハマる…自己啓発セミナーに通い続ける…で、幸せは手に入るのか?

コラム2:オカルトを信じる理由

たまたま、某新興宗教の教祖が施す『霊言』なるものについて雑談をする機会がありました。

『霊言』とは簡単に言えばいわゆるチャネリングのことで、すでにこの世を去った先人たちや、高次元の存在、はたまた神など、会えるはずのない人たちに魂レベルでアクセスして彼らからのメッセージをチャネラー霊媒師)を通して伝えるというものです。

霊言をキラーコンテンツとして信者を集めている宗教や、霊言を中心としてスピリチュアル商売をしているセラピストなど、霊言には人を魅了させる『何か』があると言えます。それは何か?考えてみましょう。

 

「百聞は一見に如かず」を大事にしている現実主義の私からすれば、自分で見たもの、自分で聞いたもの、自分で考えたことを中心に物事を見るので、オカルトはエンタテイメントとしては面白いものの自分の生きる術として利用しようとは到底思えません。

俯瞰して考えてみれば、霊言とは言葉を発する人物を通した時点で別の存在の言葉ではなく、語る人物の言葉になっており、厳しい言い方をすればインスピレーションを利用した単なる創作です。

作り話です。

そのような創作を臆することなく発信できてしまう我を忘れた無知で図太いポジティブな行動が、自己肯定感が低く自分自身すら信じることのできないネガティブな人たちにヒットするというエネルギーバランスがあるのではないかと考えます。

平気でつく嘘、本人が真実だと思い込んでいる作り話は信じられやすく、偽りだと自覚した上で話すことは疑われます。

つまり、霊言を発する者が心からそれが霊言だと信じ込んで発する言葉は、アイデンティティーの無い弱った人たちが信じてしまいやすいものなのです。

 

※人間関係や環境、物事の動きなどすべてはエネルギーバランスを基としていると私は考えています。(このことについては後述します)

 

自分が在る人(アイデンティティーが確立している人)は、こうした霊言を(飯のタネ)にしたパフォーマンスだということが容易に解るのですが、霊言を信じて宗教やスピリチュアルにハマっていく人たちが宗教やセラピストの商売に貢献しているということに全く気付かない。

つまり、霊言というツールを信じるか否かで、スピリチュアルにハマる人なのか、自己肯定感が低いのか、アイデンティティーが脆弱なのかが解るフィルターにもなると考えられます。

 

ちなみに私は霊言というものの存在を100%否定しているわけではありません。例えば「虫の知らせ」的なことや、不可思議な出来事は実際に起きています。そうしたスピリチュアル的(霊的)な事象を経験した本人が自分を守る先祖や神からのメッセージだと考え、大切にすることがあっていいはずです。しかし、第三者が誰かに対してスピリチュアル的な行為を行った時点で「単なる商売道具」に成り下がると言っているのです。

霊言を信じ込んでいる人に、これらが発している者の創作話であると言ってもけっして認めないでしょう。それはそれでいい。信じる者にとってそれが真実であると思っている以上、その人にとっては真実なのですから。

ただし真実か否かを、いちど自分で考えて欲しいと思います。とことん考え抜いて欲しいのです。

 

話を元に戻しましょう。

私はかつて出会ったことのあるオカルトにかぶれた人たちを紹介します。

その人は某新興宗教に入信していて、「お米を研いで炊飯ジャーにセットして、スイッチを押さずに手をかざしただけですぐ米が炊ける」と話していました。この人が本当に毎日、手かざしで米を炊いているのかは知りませんが、テレビなどで、そうした超常現象を放映されていませんから実際のところはどうなっているのでしょう。

 

スピリチュアルにハマりセラピストを自称するある人から波動水なるものが入ったペットボトルをもらったことがあります。これを数滴入れると波動が上がって食べ物が腐らなくなる。天然水に数滴落とせば波動水はどんどん増やすことができて、これを川に流して環境を浄化する活動をしているのだそうです。意地悪な私は、そのペットボトルを試しにそのまま放置しました。すると数か月後に藻が生えました。けっして腐らない、綺麗なままの水だと言っていたのですが。

 

自らをスピリチュアルカウンセラーと自称する人が、歴史上の人物からのメッセージを自動書記で降ろした内容を読ませてもらったことがあります。その内容は、スピリチュアルカウンセラー本人がもともと興味を持って入手している情報からイメージを広げた陳腐な話を歴史上の人物との会話だと発信しているにすぎません。が、本人は歴史上の人物と会話していると心から信じています。

 

こうした人たちは、今自分の目の前に起きている現実を差し置いて、どこか遠くを見ているような表情をしています。「夢を見続けていたい」とでも言えば良いでしょうか。

 

オカルトを信じる人たちは、信じる理由があるのです。

オカルト的な話とは、先の例に出したような(奇跡的なコト)(不思議なコト)です。火をつけてモノを燃やす、、、水をかけて火を消す、、、のような当たり前な物理現象などは、オカルトを信じる人たちは興味がありません。

『あり得ないコト』『誰も知らないコト』に魅力を感じるのです。

 

それは「自分に奇跡が起きて欲しい」という欲望に起因しています。

 

奇跡的なことがあって欲しい。奇跡が起きて欲しい。と考えているからです。自分の努力が奇跡を起こすのではなく、自信が無く怠慢なのは解っているけれど自分は特別枠として奇跡が起きて『最高に幸せな人生にしたい』と欲するからです。

ここに(特別)という言葉が出ました。自己愛に通じます。承認欲求に通じます。自己肯定感の欠如に通じます。この記事を再読ください。

 

オリンピックで金メダルを獲得する人や、世の中で活躍している人たちに、我が身を重ねて(自分もそうなりたい)と願いながらも、努力はしたくない、我慢はしたくない、だから(特別に)(奇跡が起きて)(誰もがうらやむ成功を収めたい)と考える不遜な欲望にまみれた思想が、とんでも話に飛びつく大きな理由になっています。

 

※「がんばらなくていい」「がまんしなくていい」で多くの信者(あえて信者と言います)を集める自己啓発セミナー講師がいます。このメソッドにも通じていることが分かるでしょう。

 

要は、他者と比べて(たいしたことない自分)を認められない。つまり自己肯定感の欠如が根っこにあります。特別なことをしていたい、特別なことが起きて欲しい(特別)や(奇跡)に膨らんだ欲望を重ねています。

本来、自分の人生をそもそも誰かと比べる必要などありません。今ある自分の肉体で、今ある自分の環境で、今ある自分のパフォーマンスで生きていくだけで十分です。ところが、自己愛暴走者はそうはいきません。だれよりも(比較して)素晴らしいと(他人から羨ましがられる)ハッピーで最高な人生を送りたい、そんな人生が(自分の信じるスピリチュアルや自己啓発)で手に入ると信じたいのです。

 

実直に、地道に、今目の前に在ることに、ただ真摯に向き合う連続の中に奇跡といえる素晴らしい出来事やご縁が繋がっていくものなのに、、、

突如、トントン拍子で成功したり、幸せになるのではなく、気づいたらうまくいっていたり、満足できている日常があると気づくものなのです。

そのプロセスを端折って、アファメーション(儀式)を受けただけでうまくいくのであれば、この世の中に不幸な人などいなくなります。

スピリチュアルの常套句、「肉体を持って生まれてきた」理由とは、自分の肉体を持って精一杯生き抜こうとするプロセスの中に豊かな経験があり、自分の心を練磨し、結果として魂の成長につながるものであると考えたほうが、肉体を持ってきて生まれてきたことに簡単に納得できるでしょう。

 

自分の弱さに目をつむりトンデモ話に期待しても何も返ってきません。先に述べたフィルターを通った似た者同士が集い、心の奥の奥に抱える「こんなことにうつつをぬかして果たしていいものか」という不安を仲間と共に(見えない)奇跡にすがるだけです。

 

オカルトを信じる人には、オカルトを信じる理由があります。

理由があるから捨てられません。信じ続けるしかないのです。信じ続けて現実からどんどん遠のき、見たくないものは見ずに(自分で自分をオカルトでごまかしながら)『幸せ!』だと連呼して自分をだまし続けるしかありません。

 

さあ、この記事を読んでから、スピリチュアルにハマっている人たちの書いたブログや本を読んでみてください。彼らがスピリチュアルにすがっていなければならない理由を考えながら読んでみてください。

こうした視点を持ってください。

世の中はバランスです。一方に偏るでなく、極力フラットになろうと努力しながら両極端の物事の考え方に接してみようとするのです。

こうしたプロセスにこそ、自分自身を知るきっかけがあります。実直に生きるとは、そういうことです。ひとつの論理だけにすがらず、常に疑問を持って自分の頭で考え、自分の力で調べて、自分の中でベストを尽くし行動することです。

それが、肉体を持って生まれ生きるということだと私は思っています。