脱スピリチュアル・脱自己啓発

アメブロ『脱スピリチュアル・脱自己啓発』の改訂版。スピリチュアルにハマる…自己啓発セミナーに通い続ける…で、幸せは手に入るのか?

3-4 スピリチュアル仲間と集うことで得られるもの

人間の歴史は宗教と切っても切れない関係にあるから、宗教そのものは否定しません。

人は生きていく上で、何かしらの指針や価値観の基準がなくては難しい生き物です。「社会」を形成して生きていく以上、何らかのルールや基準がなくてはならない。しかも所属するコミュニティーが繁栄するために、破滅への道を辿らないためには規律が必要ですし、その規律を守るために絶対的な存在がなくては誰も守りません。

そういう意味で「神」の存在は、人間が滅ぶ道を辿らないために必要なものなのかもしれません。一方で、それぞれが信じる神を守るために争いごとが起きているのも事実。皮肉なものです。

「欲」がある以上、生き物にとって争いは避けられないのでしょう。

 

さて、そのような中で「日本は無宗教」と思われがちですが、全くそんなことはありません。

子供が誕生すればお宮参りに行きますし、お正月には初詣へも行きます。

受験合格祈願に出掛けたり、神社仏閣は日本人にとって人気の場所です。

 

日本人はもともとアニミズムの思想が根づいていたことから、一神教では考えらえれない自由度の高い宗教観が受け入れられてきたように思います。また、神仏習合も形成された歴史があることから、日本人と宗教は非常にフレキシブルな関係だったと言えます。必要に応じてすがる神様を変える「いいとこどり教」という感じで、限定的な思想で人を拘束しない一方で「神様が見ている」というような道徳観が、日本人の真面目さや秩序を重んじる所以なのではないかと思います。

 

だからこそ、スピリチュアルがこれだけ日本人に受け入れられたのかもしれません。

海外では基本的に信仰する宗教があり、スピリチュアルとはキリスト教霊性から由来するものですから、日本で流行ったスピリチュアルとは少し違う解釈です。

日本の場合、「いいとこどり」宗教観が、スピリチュアルブームに火をつけたと言っても過言ではありません。スピリチュアルの論理で救われたい人が自分の都合のいいように解釈し、利用したのでしょう。

 

私の友人の母親は日本で非常に有名な新興宗教の信者で、毎週のように拠点に集まり勉強会をしているそうです。ある日、友人は母親に

「そんなに熱心に通って勉強する必要があるの?」と尋ねました。すると、

「勉強はどうでもいいのよ。でも、〇〇さんも行くし、△△さんも行くし、、、断れなくてね・・・」と。

どうやら教義など二の次で、(そこに仲間がいるから)行くということでした。

そこで友人が、「なぜこの宗教に入ってたの?」と聞くと、母親は「寂しかったから」と。

つまり、「仲間」「居場所」が欲しかったからなのだそうです。それほど裕福な生活ができているわけでもないのですが、その「居場所」のために、貴重なお金と時間を使っているのだそうです。そんな母親に脱会を勧めたこともあるそうですが、

「これ(宗教)があるから、(精神的に)落ち着いているから仕方ない…」という結論に達したそうです。

教義を信じているわけではない。強く信心しているわけではない・・・。でも、通い続ける理由、、、それは「居場所」だったのです。

 

つまり、スピリチュアルを盲信している人たちがいつも仲間と集うことも、自己啓発セミナー仲間同士で集うことも、友人の母親に近い状況であるのではないかと思うのです。スピリチュアルも自己啓発も、それを自分が一人生きていくための糧にするのではなく、仲間と集うことが目的になってしまっていて、彼らが欲しいのは結局、単に「居場所」なのではなかろうか?と。

 

彼らから、スピリチュアルや自己啓発セミナーを取り除くと、何が残るでしょうか?

彼らから、スピリチュアル仲間や自己啓発セミナー仲間を取り除くと、誰が残るでしょうか?

 

 新興宗教と何ら違いが無いのです。

 

 

本来、自分の生きていく指針や思想があれば、自分だけで自分の道を歩けます。仲間と集う必要などありません。仲間には仲間の人生がありそれぞれを尊重するだけで十分です。ところが、こうした人たちはそうはいきません。仲間と集ってスピリチュアルや自己啓発にからめた(イベント)をしたがります。(イベント)が無くてはならないのです。これは、先の友人の母親にとっての(拠点での勉強会)であり、定期的に行われる宗教行事などと同じです。

 

彼らは似たような価値観を持つ人たちと一緒にいることで安心感を得たいと思い、一緒にいたがるのです。それだけではありません。仲間も増やしたいと考えています。イベントを企画したり、スピリチュアルや自己啓発セミナーやセッションを開いたりして、仲間を集めます。仲間集めの延長線にスピリチュアルや自己啓発セミナー商売があるのです。

悩みや苦しみで弱った貴方を救うためではなく、仲間になろうよ!と手招きしているのです。

すべては、自分のため。「居場所」を作り、自分を「承認してくれる人」が欲しいのです。

 

スピリチュアル仲間や自己啓発セミナー仲間と集って、ブログやSNSで満面な笑顔と「私たち幸せ!」アピールを出そうとしても、それらはすべて痛々しく映ります。彼らは「独りで立てない」(自立できていない)ということを見せつけているようなものなのです。

 

スピリチュアルや自己啓発セミナーにハマってしまう人は、自己肯定感が低く、自己愛が強いと前述しました。こうした人たちは、アイデンティティーが確立されていないため、非常に厄介です。

劣等感の塊の反面、プライドが高かったり、

等身大で生きられず、自己愛や承認欲求が強かったり、

無意識に他者と比較していたり、

相手の言動に影響されやすく、傷つきやすかったり、

つまり「面倒な人」が多いのです。ですから、普通の生活では「居場所」が作りにくかったのでしょう。

 

そんな人たちに、スピリチュアルや自己啓発セミナーというのは絶好の「居場所」になるのです。なぜなら、(高次元の存在と繋がることが出来る)(選ばれし)者だからです。天使だからです。ライトワーカーだからです。この世の中を浄化し愛で満たすために神から遣わされた素晴らしい人たちだからです。これ以上に、自己愛を満たす、承認欲求を満たすキーワードがあるでしょうか?(※どこにその差があるのでしょうか?地球上で生きる我々が同じ次元に存在できない理由がどこにあるのでしょうか?不思議です)

 

セッションやります!

ヒーリングやります!

イベントします!

と、仲間を集める側の人も「居場所」が欲しいのです。

そこに集まる人も「居場所」を求めているのです。

そのような場所が、

「自分が自分でいられる場所」だと思い込み、仲間と「そのままでいい」と涙を流し合い、自分たちは「高次元へアセンションした者」だと言い出します。

自分たちだけが(高い)次元へ行ったと思う、、、それは選民意識であり、自己愛であり、高次元の存在に認められたという承認欲求そのものです。

 

スピリチュアルがネットワークビジネスに構造が似ているのも「居場所」を求めてる人にとって格好の場だからだです。ネットワークビジネスで経済的に成功している人はごくわずか。ビジネスの成功というニンジンに引き寄せられつつも、結局、そんな夢物語は実現せず、ただ同じ商品を愛用する仲間と集っていたがっているようにしか見えません。

 

ネットワークビジネスを退会したら、

新興宗教を脱会したら、

スピリチュアルや自己啓発セミナーつながりの人たちに「もう、スピリチュアルも自己啓発からも卒業して、自分の道を進みます!」と宣言したら、

どうなりますか?

それでも、変わらぬ付き合いが続けられるでしょうか?仲間でいられるでしょうか?

 

ここが、大きなポイントです。

貴方に会いたくて会う人は、貴方が何にも持っていなくても「会いたい」と思います。スピリチュアルの話は要りません。自己啓発セミナーの話も不要です。

貴方にただ会いたい。それだけです。

 

このようなことから、人間にとって「居場所」づくりは非常に大事な事なのです。所属欲求そのものでしょう。その所属のために条件がいるでしょうか?(貴方)という存在だけではダメなのでしょうか?スピリチュアルがなければならない?

(貴方)が必要として(貴方)を必要とする場所。真の「居場所」が見つかれば、大金や不要なエネルギーなど使うことにはならないと思います。

スピリチュアルに依存すると、スピリチュアルつながりの仲間と(自己の存在)に対して依存し合います。

たいがい、その仲間はセラピーとかセッションとかセミナーなど何かしらのスピリチュアル商売で出会った人たちです。このような出会いが『ご縁』となり、『宇宙との約束』などと語られて、選民意識に浸り、自己愛を満たそうとします。
しかしながら、自己愛や承認欲求は強まるばかりです。なぜなら、そのベースとなる自己肯定感が満たされないからです。
何をするでも、仲間で集いたがり、仲間同士でスピリチュアル談議に花を咲かせて、
神社やパワースポット巡り、魂を輝かせる(とかいうような)イベント三昧でスピ仲間、スピ友、はたまた、ソウルメイト?!などと言い出して、不可思議な関係性を構築し、その仲間との関係性に没頭します。


彼らが集うのは、彼らが依存しているスピリチュアルを感じていたいからです。自分が信じるスピリチュアルメソッドが正しいと思いたいからです。同じ考え方の仲間を確認することで「自分は間違っていない」と思いたいからです。
自分が信じる『素晴らしいスピリチュアル』を確認し合いたいのです。

独りではそれは難しいからなのです。

「仲間と集う」ことによって、お互いに(スピリチュアル)というコンテンツで、依存し合う、つまりスピリチュアルに依存して、スピリチュアル仲間と共依存するのです。

けっして、たった独りでスピリチュアルを楽しめません。

 

ですから、スピリチュアルを妄信する人たちは、仲間を引き込もうとするのです。
「カウンセリング」と称して、弱った人に依存の魔の手を伸ばします。掴んだ手は放しません。スピリチュアル仲間を増やしていく、、、ネットワークビジネスという名のねずみ講の構築です。



本来、物事の考え方、思想は、自分自身だけのものであっていいものです。それをアイデンティティーといいます。
アイデンティティーは、自分が自分の力で生きていく過程の中で自らの経験から構築されていくものです。
アイデンティティーは他者と共有するものではありません。


アイデンティティーが確立していれば、人生は自分だけで完結します。仲間とは、互いのアイデンティティーを尊重し合える存在であり、集って幸せをアピールするものではありません。それぞれの幸せのカタチがあり、それぞれで良いのです。

仲間と集うことが、自分の精神衛生上必要なことになってしまっているとしたら、それは大変危険な状態です。
孤独を埋めるだけのものではありませんか?不安を拭うためだけのものではありませんか?自分を認めるだけのものではありませんか?

スピリチュアルで頭がいっぱいな人はスピリチュアル依存の状態に陥っています。

依存症の人は自覚ができません。自覚ができないから依存症なのです。

スピリチュアルに猪突猛進した理由があります。

その多くには欲求不満があり、自己肯定感の欠如があります。